「宮澤やすみの小唄かふぇ Vol.9」ライブレポート


音楽と身体表現の織りなすリアリティ、ひたむきにバカを生きるということ
TEXT:鏑木麻矢 PHOTO:スズキマサミ


■よりカジュアルに、脱力に

開演前、店内には美味しいカレーの匂いが漂い、誰もがおしゃべりしながら気ままにお茶や食事を楽しんでいた。今日はいつにも増して、客席はリラックスしているような気がする。
それはBGMのせいだ。いつものジャズではなく、今日は80年代に流行ったHall&Oatesのポップなヒットソングが流れている。宮澤やすみさんのセレクトだ。宮澤さんのファッションも、モダンなムードに合わせた洋装。およそ伝統芸能のイメージとはかけ離れたポップミュージシャンのようないでたちで、やさしく親しみやすい独特の世界へといざなう。

一方、店の片隅のスタッフ席には、今回のゲスト、ダンサーの中村理(まさし)さんが準備運動中。その風貌は柔和で、今時珍しいくらい実直そのものといった朴訥な物腰だ。「現代的なスタイリッシュさと違って、どこかスキのあるような昭和の魅力に惹かれる」という中村さん。
2人のコラボ、小唄とコンテンポラリーダンスは、郷愁と脱力を軸に、はたしてどう絡み合っていくのか。今夜も、目が離せない。


■小唄は素朴な人生リアリズム

特に前触れもなく、毎度おなじみ小唄「酒の座敷」でさりげなくライブは始まった。そして、あっという間にさらりと終わる。もともと小唄は、酒の座敷の余興から発展したもの。そんな気軽さという原点に帰るのが小唄かふぇなのだ、と宮澤さん。和の伝統芸能だしキチンと鑑賞しなくちゃ!とばかりに身構えるような堅苦しさは、ここでは似合わない。

続いて、小唄の古典「川風」。隅田川で舟遊びに出たカップルの声が漏れ聞こえてくる。痴話喧嘩になるも、やがていつしか「忍び駒」。「はい、エロいですねえ(笑)」宮澤さんの一言に、皆ほおが緩む。はっきり言わずに包み隠すエロは、小唄の定石。夏の夕闇に、漏れ聞こえる二人のアノ声…、言わぬが花、見て見ぬふり、それを「粋な世界」というらしい。「…はい、そんなもんです(笑)」宮澤さんが言うと、ますます力が抜ける。

さらに極めつけは、続くこの小唄。「されば浮世」は、あまりにも面白い歌詞なので、せっかくだから全部紹介してしまおう。「されば浮世を観ずるに とかくめちゃくちゃに色と酒 ほんにこの世はバカが良い 明日のおかずはなんにしよう ちょうど良い間に 豆腐」唐突に昔なつかしい豆腐売りのあのラッパの音「とぉ〜ふ〜♪」そのまんまの節を歌う締めのフレーズには、思わず吹き出してしまう。こういった、ごく率直な日常感覚も、折に触れて様々な姿をみせる小唄の魅力のひとつだ。リアルな今を映し、生々しい情感を伝える。これこそがロックであり、ポップソングではなかったか。

■ままならぬ恋、それが人生の実相

そこで欠かせないのは、やっぱりラブソング。切ない愛の歌は、ときに一方通行で、辿り着くあてもなく独りさまようような悲哀の様相を見せる。小唄の世界でも、色恋はうまくいかないことが多いのだという。

想いを寄せる遊女のために山を越えて毎晩通うと歌う古典曲「惚れて通う」に続けて、小唄「あごで知らせて」も、期待通りとはいかない色恋の生活リアリズム。「あごで知らせて 目で受けて」と、アイコンタクトでまた会おうと約束したのに、それから何の音沙汰もないという状況を唄う。「現代でいえば、パーティーや合コンなどで出会って、また一緒に飲みにいきましょうとか言ったのに、いざメールしても返信が全然来ないなんてありがちですよね」と宮澤さん。「エエ ままならぬ ままならぬこそ 浮き世 世の中じゃ 娑婆世界」と締めくくる唄のように、時代を超えて人生の機微は変わらない。

■今・ここ、を生きる「五月のおんど」

休憩を挟み、宮澤さんが目の前で三味線のチューニングを始めた。ゲスト中村理(まさし)さんのダンスとのコラボが始まる。

ところで今回の小唄かふぇの特徴は、三味線の「ギター弾き」が多いこと。三味線でギターのようにコード(和音)を鳴らすのは、おそらく世界中でも宮澤さんだけだろう。この得意技が彼ならではの自由な発想を生み出し、ポピュラー音楽と小唄との橋渡しを可能にする。これには苦労もある。三味線は、ギターのようなフレットが無いため、正確な音程と音色を出すために左手の爪を立てて糸(弦のこと)を押さえる。「ギター弾き」では三本の糸を同時に爪先で押さえて激しく動かすものだから、今回の稽古ですでに爪がボロボロになってしまっているとのこと。ここからが、その成果の発揮だ。

満を持して、中村さんの登場である。ワイシャツに七三分けという一昔前のしがないサラリーマンのような姿の中村さんは、無音の中、椅子の上に恭しく正座し、落語家のように礼をする。大真面目なルックスと滑稽な動きとのギャップに、シュールな世界が立ち現れてきた。ポーカーフェイスかと思えば、ほんの一瞬だけ満面の愛想笑いを浮かべる。中村さんの顔の表現は、「顔で踊っている」と自他共に認めるほど、実に多彩だ。
驚くほど複雑で繊細な指先で、何かの儀式のような一連の動きをした後、緊張に包まれた空気を撹拌するかのように中村さんは立ち上がる。そして、後方に置かれたレトロな革のトランクを持ち上げ、不可解な笑みを浮かべながら中をまさぐり、手品師のように取り出した。赤いダルマ。ここでドリフターズの「ズンドコ節」が鳴り出す。宮澤さんの三味線ギター弾きだ。場の空気が、一気にゆるむ。生まれて初めてダルマを見た動物の子供さながらに、笑いかけたり話しかけようとしたり、持ち上げて激しく振ったりする中村さん。あげくにはダルマを両手で掲げて引き寄せ、音をたててにおいをかぐ。客席にどっと笑いが起きる。先ほどまでの神妙さとは打って変わって、中村さんはすっかりコメディアンの顔だ。

中村さんにとってのダルマは、自分に対する他者の象徴だという。赤いダルマに続いて、少し小ぶりなピンクのダルマも登場。これを抱き上げたりキスしたりしながら、喜び舞い上がる。だが、そんな幸せは長くは続かない。中村さんはそっとダルマを元のトランクに仕舞い、がっくりとうなだれた。この凹みぶり、前半の小唄「あごで知らせて」を彷彿とさせる。 ノスタルジックな「ズンドコ節」に乗せて、続いて中村さんがもうひとつのトランクから取り出したのは、ひょっとこのお面。呆れるくらいひょっとこそっくりに真似た彼の顔と、お面と。ふたつの顔が並んでやがて重なり、ひとつになったところで、音が消えた。

ひょっとこになった中村さんの背後から、柔らかく哀愁ただよう三味線の音がビートルズの「ガール」を奏で出した。ここからダンスは、鷹揚で優雅な動作へと移っていく。掴んだり、ぐっと引き寄せたりと、何かを求めてやまないような力強さを感じる腕の躍動がある反面、吊るされて引っ張られるようなぎこちないさまは操り人形のようでもある。糸が切れたようにガクリと静止すると、今度は再び激しく指を動かしながら天を仰いだ。それから目に見えない何かを放り投げては取り、また放り投げては取り、しかしそれをもなくしてしまったのだろうか、苦しみ悶えながら探すような様子だ。顔も見えずに全身全霊でのたうち回る肉体は、魂の彷徨そのものに見える。やがてお面を取ると、汗まみれになった彼は哀しい目をしていた。そのまま魂が抜けたような顔で、お面を椅子の上に置く。ひときわ長い呼吸音。「ガール」の曲が止む。

再び無音の中、例の胸を突く動作になったが、今度はもっと速く激しい。何度となく聞こえる呼吸音も荒い。ふいに動きを止めると、彼は力の抜けきった顔で彼方へと手をかざした。もはや無我無心の境といったおもむきで、その指先は伸びやかだ。この祈りに応えるかのように、三味線がそっと「蛍の光」を奏でる。この静謐さをたたえた表情のまま、体の動きは曲と同じリズムからだんだんと何倍も速く激しくなっていった。腕を振り回して全身を左右にねじりながら、ときに体をパチパチと叩く音をたてるのが狂おしい。しかし、顔はあくまで穏やかだ。何となく、デフォルメしたラジオ体操のように見えなくもない。忙しい毎日を淡々とやり過ごす気分というのはこんな感じかなというような気もする。時折、自分の手を哀しげにながめては、また激しい呼吸とともに、音をたてて膝を上下に叩く。汗が飛び散る。そんな時間をしばし経たのち、ふと我に返ったように虚空を見つめ、直立して、この演目は終わる。

■中村理、小唄を踊る

今度は小唄そのものを軸に据えての真剣勝負。中村さんが振りを組み上げるときにはいつも、その時々に合わせて様々な方法を試みるという。このたび小唄3曲を踊るに当たっても、すべて違うアプローチを実践した。

最初の曲は、「移り香」。夜の営みのあとに残った「一筋からむこぼれ髪」に、相手が帰ってしまったあとの空虚感を突き付けられ未練に苛まれるという、エロくも切ない唄。床をまさぐるような動作を見ていると、彼の指先から腕から、次々と絡み付いてきて離れない髪の毛がありありと目に浮かんでしまう。それは、忘れがたく心に焼き付いてしまった悪夢のような未練そのものが形を持って現れたかのようだ。

続いては、「すっぽらぽん」。世間には色々な裏表があるけれど、自分はありのままだと明るく唄う。「あけっぴろげのすっぽらぽん」という決めフレーズが楽しい。こちらは内容よりも音やリズムを重視して振りを作ったという。

最後は再び、「あごで知らせて」。今度は歌詞を大げさにデフォルメしてみたという中村さんの演技は、ドタバタコメディのようで笑える。「あごで知らせて」で文字通りの顔芸、「目で受けて」で自分の目玉を抜き取って食べてしまう身振り。そしてバカみたいに浮かれてはしゃいで、落ち込むところも歌詞そのまんま。ままならぬ娑婆世界に翻弄される哀れで間抜けな男のおかしみを全身からほとばしらせていた。唄が終わっての後奏で再び「あごで知らせて 目で受けて」の振り、挙句に食べたら苦〜い顔というオチまでつく。短い中に、中村さんならではの表現の魅力が詰め込まれた一曲となった。

■やっぱりこの世はバカが良い

締めは再び、宮澤さんの三味線と唄で。「戦後のアメリカで流行った小唄をやります」と言って歌い出したのは、なんと開演前に流れていた Hall&Oates の"Private Eyes"だ。もちろん三味線のギター弾きで、歌詞は宮澤さんによる日本語訳。ざっくり言えばこんな感じの歌詞。目と目で語り合っても、心は通じ合ったりすれ違ったり、本当のところはよくわからないけれど、とにかく「君を見てる」と。なるほど何かそんなような小唄を、ついさっき聴いたような気がする。五月の風のように軽やかなメロディーに乗せて、恋や人生の不思議が唄われる。

そして、おなじみのテーマソング「小唄かふぇのブルース」へ。「小唄はやさしいポピュラーソングさ」で始まるこの曲は、まさに今回のテーマソングでもある。だから、いつもと違ってロングバージョンだ。途中に挟まれるのは、前半で演奏された小唄「されば浮世」の一節「ほんにこの世はバカが良い」。そして2番で、こう続く。「バカにも利口にもなれず生きづらい世の中 せめて今夜は小唄をうたわせておくれ」もやもやとした心の叫びを粋にさらりと代弁してくれる小唄は、ささやかなストレス解消法になりそうだ。 

最後はもうひとつのテーマソング、宮澤さん本人の座右の銘でもある小唄「世の中さまざま」。ここでも「苦労しながら鼻歌で けっこう楽しいバカもいる」なんて、これも狙ってたの?いやいや、そんなことはない。この唄はそもそも、毎回ラストのお約束。こんな感じが、むしろ宮澤さんあるいは小唄かふぇの原点だし本質なのだ。面白くもない毎日によどんだ気分だって、小唄かふぇでなら癒されるかもしれない。今の自分に寄り添ってくれるような唄などにきっと出会えるし、ゆるくてわかりやすいのに、斬新な試みと瑞々しいパフォーマンスはいつでも最先端。新しい風を呼び込むような刺激を与えてくれることだろう。次回は真夏の夜に、一人芝居による怪談「牡丹灯籠」とのコラボ。またもや誰も見たことのないやり方で、背筋を凍り付かせてくれることうけあいだ。

鏑木麻矢 http://emadoujou.blog.fc2.com

  
















































































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